数多の男と浮名を流し、最後はアルコールと麻薬中毒で、47歳の生涯を閉じたシャンソン界最高の
  歌手エディット・ピアフ!
  ピアフとは雀という意味だそうですが、もしかしたら美空ひばりはピアフにあやかったのかなと想像
  してしまいました。
  艶っぽく、物憂げで少し乾いたようなと言うか、突き放したような感じの彼女の歌声は生き様をその
  まま映し出したような雰囲気があります。
  かわいい女を演じて男に媚を売るような、そんな生き方はしなかった彼女、若く無名ではあっても優
  れた才能を愛し、損得抜きでひとり立ちを支援した行為は世界的なスターになったイヴ・モンタンを
  生みました。
  「バラ色の人生」はピアフ自身の作詞ですが、モンタンとの別れを決意したときに生まれた曲です。
  また「愛の賛歌」は妻子あるボクサーとの愛を、飛行機事故で失ったとき、悲しみの中から生まれた
  といわれています。
  鬼気迫る伝説的な生涯をインターネットで知り、同じ歌が複雑な感慨を伴って、私の感性を揺さぶり
  ました。

  以下はインターネットで調べたエディット・ピアフの歴史です。
     http://www.chansonkame.com/p16_f.htm
     http://www.geocities.jp/bar_tokiha/tale/iionna02.html
  を参考にしました。
  1915 大正4年
  12月19日、エディット・ピアフ (本名エディット・ジョヴァンナ・ガシオン) 生まれる。
  父ルイ・アルフォンス・ガシオンは、アクロバットの大道芸人。
  母アネッタ・メイヤールはイタリア人、街頭で歌を歌っていた。
  母親はピアフを生むとすぐに姿を消してしまい、生後2カ月にして、母方の祖母の家に預けられる。
  その後ノルマンディの片田舎で売春宿を経営していた父方の祖母ルイーズのもとにあずけられる。
  3歳のとき白内障にかかり視力を失う。2年後祖母ルイーズに連れられ、「奇跡の地ルルド」を訪
  れ、他の娼婦たちも一緒に祈ったところ、奇跡的に視力を回復した。

  16歳のとき運送店の配達夫プティ・ルイ (17歳)と駆け落ち、安ホテルで同棲生活を始める。
  その間、外人部隊の兵隊と浮気。
  18歳で娘マルセル・デュポン(セセル)を出産。 その後すぐプティ・ルイと別れる。
  アルベールの情婦になる。毎日街頭で歌い、貢ぐもアルベールにピストルで撃たれる。
  水夫、トルコの騎兵隊、元炭鉱夫 同時に3人の恋人を持つ。

  娘マルセル、2歳半で脳膜炎で死去 。埋葬費用もなく、街頭に立ち、男を10フランで拾う。
  キャバレー「ジェルニーズ」の経営者ルイ・ルプレがピアフの歌声に魅せられ、彼女を
  「ラ・モーム・ピアフ 」(子すずめ) の名でデビューさせる。
  2年後ルイ・ルプレ殺人容疑者として警察の取調べを受けるが、証拠不十分で釈放される。
  レイモン・アッソー(作詞家)と同棲生活始まる。
  「私を利用しようとするのでもなくければ、自分の愛人にしようという下心もなく、
  私に救いの手をさしのべてくれた最初の男性は作詞家のレイモン・アッソーでした。」
  泥沼の生活から立ち直り、歌手生活を確立
  ABC劇場のステージ゙に「エディット・ピアフ」の芸名で立つ。
  1939
  アッソー の徴兵以後、二人の関係に終止符。
  歌手のポール・ムーリスと出会い、二人の関係は2年続く。
  1941
  ポール・ムーリス と別れる。
  妻子ある作曲家と恋愛。
  彼女のために「バダン・パダン」などのシャンソン を書い
  たアンリ・コンテ と同棲。
  1944
  「ムーラン・ルージュ」にイヴ・モンタン、出演。ピアフ、
  モンタンの歌をテスト、
  共演(アメリケーヌ) に決め、シャンソンの特訓を開始。
  モンタン、ピアフの新しい「主人」に、二人の恋人生活は
  2年間続く。
  1946
  イヴ・モンタンを育て世界的なスターになったとき、ピアフは静かに彼のもとを去っていきます。
  「バラ色の人生」はピアフ自身の作詞ですが、モンタンとの別れを決意したときに生まれた曲。

  1947
  マルセル・セルダン(カサブランカ出身のボクサー) と出会う。
  NYマジソン・スクエア・ガーデンの世界ミドル級選手権大会でチャンピオンに
  1949
  セルダンは彼女の力もお金も必要としない素朴で明るい男でした。
  ピアフをジェットコースターに乗せて大喜びさせ、自分の試合のリングサイトに呼んで、プロボクシ
  ングの世界タイトルをプレゼントしたのです。
  マルセルには妻子がいたので結婚はできませんでしたが、ピアフにとって最も幸せなときだったのか
  もしれません。
  しかしその年の10月28日、大きな衝撃がピアフをおそいます。
  彼女はニューヨークで公演中、マルセルは船でピアフのもとに来ることになっていたのですが、
   「とても待てないの、飛行機で来て!」
   「いいよ、きみにキスを。愛しているよ」
  それが彼の最後の言葉になってしまいました。マルセルの乗った飛行機はアゾレス諸島で墜落、
  二度と彼はピアフのもとにはもどりませんでした。
  1950
  1月《愛の讃歌》クラッシック音楽の殿堂「プレイエル音楽堂」にて創唱。
  2月17日午後4時、セルダンの妻、マリネット・セルダンからの電報、カサブランカで会う
  1951
  有名な自転車競争選手の妻子あるアンドレ・プースと1 年間の恋愛関係が続く
  1952
  モルヒネとアルコールの常習
  7月29日、ジャック・ピルスとパリ第16区役所に結婚届。
  マレーネ・デートリッヒを立会い人に結婚式をあげましたが結婚後、何回も入退院を繰り返しました。

  1954
  ジャン・ドレジャック。1921生まれのシンガー・ソング・ライター。54年から55年にかけてピアフに
  愛され、アメリカ巡業も同行する。
  1956
  アルコール中毒で入院。
  1957
  5月15日、ジャック・ピルスと離婚
  1958
  ピアフのために作詞・作曲をしたジョルジュ・ムスタキ(23)、
  ピアフの自宅に「主人」として迎えられる。
  1959
  ジョルジュ・ムスタキと袂を分かつ。
  麻薬中毒で3度目の入院
  1962
  テオ・サラポと16区の区役所に結婚届けを出す。
  1963
  10月11日13時10分、ピアフ、南フランスのプラスカシェで心臓マヒのため死去 (47歳)
  アルコール中毒と麻薬の常用で経済観念のまったく無かった彼女には莫大な借金が残ったそうです。
  最後の夫20歳年下のテオ・サラポに看取られながら、波乱万丈の人生の幕を閉じたピアフ。