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  ふるさと 諫早  

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母の卒寿を祝うため、諫早の実家へ戻りました。私が育った家は、諫早の市街にありました
が、いまの家は旧長崎街道沿いの草深い辺鄙な場所にあります。
できた当初は周りにあまり家もなくさびしいところでしたが、長崎へは車で20分ほどで行
けることや、近くにソニーの長崎工場があることから、最近は住宅の新築ラッシュになって
いる所です。
長崎街道は、西洋文明へつながる道として、数多くの志士や、向上心に取り憑かれた若者が
往来したところで、華やかで明るい印象があっても良いのですが、実家のそばの赤松坂は、
細く薄暗い心細げな坂になっています。
またこの近くには久山の磨崖仏がありますが、こんな辺鄙なところに、どんな人が、どんな
思いで仏像を刻んでいたのか、昔の人の生き方を考えさせられました。
長崎街道赤松坂 赤松坂 赤松坂 赤松坂に咲いていた花
久山の磨崖仏 磨崖仏三十三観音 磨崖仏三十三観音 磨崖仏三十三観音
磨崖仏三十三観音 磨崖仏三十三観音 旧茶屋の井戸 竜馬さんも通った道
 

       
諫早家の菩提寺天祐寺境内には、初代龍造寺家晴から、歴代領主一族の五輪塔形式の墓が
一代も欠けることなく揃い、領主の墓18基、正・側室や子息の墓25基があります。
曹洞宗の禅寺で約460年前、永正・大永(1504-28)年間の頃、諫早の領主西郷石見守尚善が、
春岡揚富禅師を肥前の南江、保福寺より招じて、自から本寺の開基となり、その法号天祐
宗基居士の天祐の2字をとって寺号となしたと言われています。
奈良時代の古い建築様式は、仁王門から鐘堂・本堂に今もなお残り「弥勒四十九院」作
りといわれる鍋島藩の特徴的なつくりを、色濃く残しています。 
(以上インターネットで収集した知識)
諫早には、このほかにも、八橋検校がここで筝曲「六段」を創ったといわれる慶巌寺や、
シーボルトが宿泊した安勝寺など歴史を感じさせるお寺があり、どれも九州の片田舎のお
寺とは思えないほど洗練された立派なお寺です。
天祐寺奥の院への門 天祐寺の門 天祐寺 天祐寺
天祐寺山門 天祐寺山門 天祐寺の回廊 諫早家墓所
諫早家墓所 諫早家墓所 諫早家墓所 諫早家墓所
諫早家墓所 諫早家墓所 天祐寺の白壁 天祐寺の白壁
天祐寺の回廊 天祐寺の仁王像 天祐寺の仁王像 天祐寺山門
 

 
諫早公園にある眼鏡橋は、諫早のシンボルで、有名な長崎の眼鏡橋より風格もあり数段立派
な橋です。私は小さい頃こちらの方が本家本元の眼鏡橋だと思っていました。
天保9年(1838年)2月に着工して翌10年8月に、当時の人々が、永久に壊れない橋を
との願いを込めて本明川に架けた石造りのアーチ橋です。全長49.25m、石段が38段ある規模
の大きなもので、長い間諫早の重要な交通手段でした。

本明川に掛かっていたこの橋は、石橋では日本で最初に重要文化財に指定され、私が中学一
年のときの昭和32年に起きた諫早大水害にも流されませんでした。
奔流に頑強に耐えたため、そのアーチ部に多数の流木が積み重なってダム状になり、周辺の
被害をかえって大きくしてしまいました。
水害後の本明川改修に伴い、解体されて現在の諫早公園に移築され、今では諫早観光の目玉
となっています。
眼鏡橋 眼鏡橋 眼鏡橋 眼鏡橋
 

       
諫早公園は、よく手入れされた小高い森の公園で、頂上にお城が築かれていたと言います。
この城は高城とも亀の城とも呼ばれ、敵が攻めてくると亀の甲の上に建ったお城がせり上が
り敵の攻撃を防いだ(ぐ)と教わりました。
全山が国指定天然記念物「諫早市城山暖地性樹叢」に指定されています。 
頂上には、樹齢600〜1000年の クスノキの巨木があり、我が家からもハッキリと見る
ことができました。ミサオノキや、タブ、ツガ、オガタマノキ、ナナミノキの大木の他、南
方系の珍種と言われる ヒゼンマユミ が数本あります。また、私はこの公園に松の木が全然
ないのも不思議だと常々思っていました。
私の小学校一年のときの絵日記の8月3日の公園がここです。
この公園の周りの地名は、高城町、城見町、金谷町など昔をしのばせる町名が残っています。
諫早公園登り口 諫早公園 クスノキの巨木 クスノキの巨木
諫早公園 諫早公園 諫早公園 諫早公園
諫早公園 諫早公園 諫早公園 諫早公園
諫早公園 諫早公園 諫早の花 諫早の花
           
諫早の花 諫早の花 諫早の花 諫早の花
諫早の花 諫早の花 諫早の花 諫早の花
諫早の花 諫早の花 諫早の花 諫早の花
諫早の花 諫早の花 諫早の花 諫早の花
諫早の花 諫早の花 諫早の花 諫早の花
諫早の花 諫早の花 諫早の花 諫早の花