ボランティア・寄付ならプラン・ジャパン
 あなたは累計 
  人目の訪問者です。 
 本日は  番目のアクセスです。
 昨日のヒット数は  でした。
HOME
2018/03/15  人類の歴史と未来       最終更新日:
 

 

 
  

人類の歴史と未来(サピエンス全史を読んで)
「第1部」 人類の歴史と未来 (ユヴァル・ノア・ハラリ著「サピエンス全史」を読んで) 「第2部」 「生きる意味」と「神の存在」 (この本を読んで派生的に考えたこと) 「第1部」 人類の歴史と未来(サピエンス全史を読んで) 2016年末、下咽頭がんの抗がん剤治療中、新聞の書評で 「サピエンス全史」のことを知った。 『サピエンス全史』の著者ユヴァル・ノア・ハラリはユダヤ 人の歴史学者で、乳製品等も摂らない完全な菜食主義者、 強固な無神論者でもあり、ゲイでもある。 普通なら、私はこの種の人々は受け入れる気にもなれないの だが、この本はそんな私の偏見を完全に払拭してしまった。 この本を読む前、私は歴史を、起きた事象を時系列に並べた 記録としてしか捉えていなかった。 中学・高校時代の世界史なら ************************************ 紀元前 3000頃 エジプト、統一国家の形成 メソポタミアにシュメール人の都市国家 インダス文明 2000頃 古バビロニア王国 1500頃 殷王朝の成立 750頃 古代ローマが建国される 557 シャカ生まれる 247 始皇帝が即位(~210) 紀元後 30 キリストが処刑される 67 中国に仏教伝来 1313 ドイツで火薬が発明される 1492 コロンブスが新大陸を発見 1517 ルター宗教改革 1519 マゼラン船隊が世界一周(~1522) 1543 コペルニクスが「地動説」を唱える 1687 ニュートンが「万有引力の法則」を発見 1760 イギリスの産業革命(~1840) 1765 ワットが蒸気機関を改良 1789 ワシントン初代大統領、就任 フランス革命 1804 ナポレオンが即位 1814 スチブンソンが蒸気機関車を発明 1859 ダーウィンが『種の起源』を著す 1879 エジソンが白熱電灯を発明 1895 ドイツのレントゲンがⅩ線を発見 日本史なら 日本が歴史に名を留めたのは、せいぜい2千年前から 弥生時代 57 奴国王が後漢に使いを送り、中国の光武帝が金印を授ける。 239 邪馬台国の卑弥呼が魏に使いを送る。 邪馬台国が30余国を支配。 古墳時代 285 漢字が中国から伝わる。 538 百済から仏教が伝わる 飛鳥時代 574 聖徳太子の誕生。 710 奈良時代/794 平安時代/1185 鎌倉時代/1338 室町時代/1574 安土桃山時代/1603 江戸時代/ 1868 明治時代 1872 義務教育の開始    新橋-横浜間に鉄道が開通、太陽暦 1887 東京に電灯がつく 1912 大正時代 1925 ラジオ放送が始まる。 1926 昭和時代 ************************************ といった具合である。 『サピエンス全史』の著者ユヴァル・ノア・ハラリはこんな 歴史の見方とは全く違う視点で、人類史を見事に解剖してい る。 どうしてホモ・サピエンスだけが食物連鎖の頂点に立ち、文明 を築き、繁栄することができたのか? 人類史を俯瞰的に解析し、斬新な視点で説明するこの本は、私 が今まで考えてもみなかった事柄を、次々に解き明かしてくれ、 瞬く間に何度も読み返していた。 この本を読んで、「話す能力」や「お金」がどんな意味を持っ ていたのか、「農業革命」が人類に与えた影響など、人類史上 の出来事に対し、疑問も持たず、考えもしなかった私は、新鮮 な驚きと、著者の明晰な頭脳に感動すら覚えた。 最近読んだ本の中で、一番刺激的で、興味をそそられる面白い 本だった。 早速下巻を注文したが、品切れで、やっと手に届いたのは2か 月後の1月末であった。 この本の中で、著者は他の動物たちが言語化できない「虚構」、 すなわち、架空の事物について語る能力を持った、7万年前 の「認知革命」が、その後の人類の礎になったと説く。 狩猟民から農耕民へ変遷した過程も、「史上最大の詐欺」と 刺激的に説明し、「貨幣」の普遍的な原理、「虚構」である 「宗教」の果たした役割、科学革命がなぜヨーロッパで起こ り、中東やアジア・中国では起こらなかったのか? 農業革命以降、科学革命まで、なぜヒトの生活の質はほとん ど変わらなかったのか? 蒸気機関の発明などのテクノロジーの進化は、たった2百年 前のことで、生命体としての人類の進化は、全く対応できて いない。 これらの人類史の、なんとなく知っているようで、その意味 や価値を考えていなかった事柄を、思いもよらぬ視点で、突 きつけ、解説してくれた。 著者は、「神になった動物」というタイトルのあとがきで。 「私たちはかってなかったほど強力だが、それほどの力を何 に使えばいいかは、ほとんど見当もつかない。 (中略) 自ら神にのし上がった私たちが責任を取らなければならない 相手はいない。 その結果、私たちは仲間の動物たちや周囲の生態系を悲惨な 目に遭わせ、自分自身の快適さや楽しみしか追い求めないが、 それでも決して満足できずにいる。 自分が何を望んでいるかもわからない、不満で無責任な神々 ほど危険なものがあるだろうか?」と結んでいる。 人類に幸せな未来はあるのだろうか? 私はこの本を読み終えて、自分の生きる意味や、人類の未来 について、何度も考えることになった。 「ホモ・サピエンス繁栄までの歴史」 宇宙が誕生したのが138億年前、地球が誕生したのが45億 年前、生物が表れたのが38億年前、そして6百万年前、ヒト とチンパンジーの祖先が分かれた。 アフリカでホモ属が進化し、最初の石器が使われたのが250 万年前、火が使われるようになったのが30万年前、ネアンデ ルタール人は、約40万年前に出現し、絶滅したのが2万数千 年前。(つまり、ネアンデルタール人は40万年弱生き延びた) 一方アフリカに住み続けた集団からはヒトが進化した。 ホモ・サピエンス誕生が28万年前、進化し始めたのが20万 年前、虚構を語れるような言語が生まれたのが7万年前、ホモ 属に属する人類種は、全部で20種ほどいたが、ホモ・サピエ ンス以外はすべて絶滅した。 約7万年前から約3万年前にかけて、人類は船やランプ、弓矢 や針を発明した。 芸術と呼ばれるにふさわしい壁画などを残せるようにもなった。 「認知革命」 ホモ・サピエンスは、「認知革命」により、地球上のあらゆる 生物と差別化され、唯一文明を持った生き物となった。 この七万年前から三万年前にかけて見られた、新しい思考と意思 疎通の方法の登場のことを、「認知革命」という。 「気をつけろ!ライオンが現れたぞ!」ということを鳴き声的な 言語で話しあうことができたとしても「昨日ライオンがこの場所 にいたぞ!」という事は、鳥や猿たちは言語化できない。 この言語化できない情報というのは、その「個体」が死んでしま えば、消えてしまう情報に過ぎない。 目に見えない記憶の中の情報を言語化できるということは、その 「個体」が死んでしまっても、口伝え的に情報として残る。 自分のことしか考えられない個体の集まりでは、大きな集団を形 ち作ることは不可能である。 対して、ある特定の「神」のために戦うという目的があるなら、 原理的にはいくらでも大きな集団を形成できる。 認知革命によって、人類の発展に繋がる特徴である、言語、発明、 芸術、交易、伝説や神話、神々、宗教、階層化した複雑な社会が 現れた。 どんな動物も、何かしらの言語を持っているが、私たちの言語は 驚くほど柔軟で、それは噂話のために発達した。 自分の集団の中で、誰が誰を憎んでいるか、誰が誰と寝ているか、 誰が正直か、誰がずるをするかを知ることのほうが、はるかに 重要な意味を持つ。 「虚構」、すなわち架空の事物について語る能力が、サピエンス の言語の特徴である。 虚構を信じる力を獲得したことで、ホモ・サピエンスは現在の 地位を手に入れた。 ネアンデルタール人絶滅の理由 三万年程前にネアンデルタール人は絶滅したが、その原因は言語 にあると言う。 ホモ・サピエンスと、喉の長さを比較するとホモ・サピエンスの ほうが長く、ネアンデルタール人より、複雑な会話をすることが できた。 そのおかげで、より大きな集団をコントロールできたホモ・サピ エンスが生き残れた。 なぜ、複雑な会話をすることが、できるようになったのか? 別の説によると、ネアンデルタール人の、復元した40万文字の DNAとホモ・サピエンスのそれを比べると、ネアンデルタール 人の”A”の部分が、ホモ・サピエンスでは”T”に変化しており、 言葉に関わるFOXP2遺伝子に影響を与え、複雑な会話ができ るようになったという。(2015年のNHK番組による) 「農業革命は史上最大の詐欺」 農業革命は1万2千年前に現れ、5千年前には最初の王国、書記 体系、貨幣、多神教が現れる。 認知革命は、農業革命という「史上最大の詐欺」を生み出し、農 業によって拡大した人口は、同時にコミュニティの統治に対する 問題を生み出した。 数千、数万人の人々を束ねるには、強い共同幻想が必要となった。 人類は農業革命によって、手に入る食糧の総量をたしかに増やす ことはできたが、食糧の増加は、より良い食生活や、より長い休 暇には結びつかなかった。 むしろ、人口爆発と飽食のエリート層の誕生につながった。 ホモ・サピエンスが一握りの食物種を栽培化したのではなく、逆 にホモ・サピエンスが、小麦などを育てるために、種を播き、耕 し、水を引き、草取りをするよう、家畜化させられたと著者は言 う。 小麦という植物から見れば、人間を働かせて小麦を増やさせ、生 育範囲を世界中に広げたのだ。 つまり農業革命とは“小麦に人間が家畜化された”とも言える。 定住して農業を行う前の狩猟採集生活は、実は食料的にはバラエ ティに富み、栄養バランスの取れた素晴らしい生活だった。 平均的な農耕民は、平均的な狩猟採集民よりも苦労して働いたの に、見返りに得られる食べ物は劣っていた。 小麦、稲、トウモロコシ、ジャガイモ、キビ、大麦等、のほんの 一握りの植物を栽培することにより、単位面積当たり、はるかに 多くの食物を得られるようになった人類は、指数関数的に数を増 やせた。 しかし、その結果、病気や栄養不良、定住による感染症等に苦し むこととなった。 さらに、穀倉などを守るために、城壁や見張り番も必要となり、 帝国を産む必然性が生まれた。 農業革命は、史上最大の詐欺だったのだ。 農業革命後、文字や階級の発明などを経ながら、強力な共同幻想 として貨幣、宗教、帝国といった概念が生まれていく。 「貨幣は、相互信頼の制度」 2千5百年前、普遍的な貨幣としての硬貨の発明があった。 貨幣には、2つの原理、即ち普遍的転換性、普遍的信頼性がある。 まず、普遍的転換性とは、貨幣に仲介させる事で、様々なもの同 士を好きな時に交換出来るようになった事。 お金自体には実態がないのに、どんなものにでも転換できるし、 富を蓄えることも、持ち運びも可能になったことである。 そして、普遍的信頼性とは、貨幣に仲介させる事で、様々な事業 において、あらゆる人同士が協力出来るようになったのである。 信頼こそ、あらゆる種類の貨幣を生み出す際の原材料にほかなら ない。 貨幣は言語や国家の法律、文化の規準、宗教的信仰、社会習慣の 壁を越えた、最も普遍的で最も効率的な相互信頼の制度なのだ。 貨幣は人間が生み出した信頼制度のうち、ほぼどんな文化の間の 溝をも埋め、宗教や性別、人種、年齢、性的指向に基づいて差別 することのない唯一のものだ。 著者はインタビューの中で「お金やドルは、全員が信じるところ となっています。 オサマ・ビン・ラディンでさえもです。 彼は、アメリカの政治と宗教と文化を憎んでいましたがアメリカ ・ドルにたてつくことはありませんでした。 実際のところ相当好きだったと思います」と語っている。 「新しい通貨の誕生」 本書では紹介されていないが、最近話題のビットコインは、暗号 通貨または、分散化されたデジタル通貨と言われる、パソコンを 介した新しいタイプの仮想通貨である。 クレジットカードの手数料より、さらに安価な決済コストを実現 でき、かつ土日祝祭日に左右されない。 また、売り手・買い手双方ともに、個人情報やカード番号など、 外部に漏れたら問題になるような情報の入力も必要ない等の特徴 を持ち、急速に普及し始めている。 価値の保証が、国や中央銀行で行われるドルや円と異なり、ソフ トウエアとなるビットコインが、今後の経済に、どのような影響 を及ぼすのか、懸念を持って見守る必要があると思う。 「宗教の歴史的意義」 2千5百年前に仏教が起こり、2千年前にはキリスト教、1千4 百年前にはイスラム教が開かれた。 普遍的で、宣教を行なう宗教が現れ始めたのは、紀元前1千年紀。 宗教は歴史上屈指の重要な革命であった。 帝国・貨幣と同様、人類の統一に不可欠の貢献をした。 歴史の大半は、どうやって厖大な数の人を納得させ、神、国民、 あるいは有限責任会社にまつわる特定の物語を彼らに信じてもら うかという問題を軸に展開してきた。 宗教のおかげで、無数の見知らぬ人どうしが力を合わせ、共通の 目的のために精を出すことが可能になった。 宗教は「虚構」、すなわち架空の事物について語る能力によって 生まれたと著者は主張する。 「宇宙に神は一人もおらず 、人類の共通の想像の中以外には 、 国民も 、お金も 、人権も 、法律も 、正義も存在しない」 私たちが信じ、当たり前だと思ってるものは、全てサピエンスが 想像で作り出したものに過ぎず、決して普遍ではないことを筆者 は突きつけている。 ダーウィンの進化論を絶対視する人々と同じく、無神論に立って いると思う。 私は、母によって幼児洗礼を受けたが、中学時代から宗教を信じ ることができなくなった。 しかし、無神論になることもできない。 「人類は、神になり始めたのか?」 著者によると、「人類は、生命を設計して作り出すことを始めた。 これにより、ホモ・サピエンスそのものを変えようとしている」 としているが、私は大いに疑問に思う。 人はバラの花の改良はできるが、バラそのものを作ることはでき ない。 クローンは作れても、全く新しい種を創造することもできない。 草花の形、色、動物や昆虫の生態、どれをとってもヒトが作った ものではない。 創造主がいないとするなら、宇宙は、地球は、人類はどうして存 在するのか? ビッグバン、ブラックホール、暗黒物質・・・・知らないこと、 わからないことだらけだ。 無神論者でもある、地球物理学者のホーキング博士は、「AIの 完全な登場は、人類の終焉につながる」とも述べている。 「科学革命以降の劇的変化」 農業革命以降、5百年前の科学革命までの1万1千年以上、ヒト の生活の質はほとんど変わらなかった。 この時期、人々は、将来が現在よりも良くなるとは信じられなか った。 その結果、人々の生活は何代にもわたり、殆ど変わらず停滞し、 経済は沈滞するという思い込みは現実のものとなった。 ヨーロッパでは、知らないということを認めることで、科学革命 が発生する素地ができた。 科学革命以降、資本主義の台頭、2百年前の産業革命、そして現 代と変遷していく。 「科学の発展」は「富を創出」し、「帝国を拡大」した。 この関係は、500年前に起こり、ヒトの生活の変化速度を劇的 に早めることになった。 この1500年からの500年間で、人口は14倍、生産量は2 40倍、エネルギー消費量は115倍と、爆発的に増加した。 私は、歴史を学んでいて、500年前なんて大昔だと思っていた のに、『サピエンス全史』を読むと、この変化はヒトの歴史の中 でも、短い、さらにほんの一瞬のことだと実感させられた。 科学は力となり、力は帝国を成長させ富を生む。 そして富は、さらなる富を生むために再び科学へと注ぎ込まれて いく。 急成長する帝国は、世界を覆いつくし、そのサイクルの中で資本 主義や合理主義といった、神のいない宗教(イデオロギー)が生 まれ、植民地が生まれ、奴隷貿易が生まれていく。 蒸気機関の発明は、農業人口を90%から数%以下へと引き下げ、 余剰の人口は様々な職業に割り振られていく。 その結果、人類全体としての知識は膨大なものになったが、各個 人の知識は細分化され、狩猟民の知識より貧弱化した。 現代人が、裸一貫で無人島に放り込まれたら、何ができるかを考 えれば、狩猟民にかなわないことは、容易に想像できる。 狩猟民は、身の回りのものすべてを作ることができたが、現代人 は、ほとんど何も作ることはできないし、火を起こすことすら、 困難である。 エアコンや自動車など、便利になった反面、生き物としては脆弱 になったことも確かである。 生産性が加速度的に向上し、エネルギー革命はついには原子爆弾 を生み出す。 著者によると「破滅的な兵器と思われた核兵器は、壊滅的である がために、使うことができない武器となり、その結果、膠着状態 に陥り、グローバル経済と両輪で、意図せぬ平和を生み出す原因 となった。 暴力で得られるものよりも、失うものが遥かに大きくなってしま ったため、20世紀後半は、人類史上もっとも平和な時代となっ た。」と主張する。 ただ、直近の世界を見ると、独裁化と自国第一主義のポピュリズ ムが進行し、核兵器も戦術的使用が可能になるよう、爆発力を抑 えた小型核兵器の開発を進める気運が高まっている。 一方で資本主義は、「成長し続けなければならない」という宿命 を帯び、科学と産業はパイの拡大を至上の命題とすることになる。 このため、消費は善であるという幻想が起こった。 全世界の家畜の総量が7億トンで、野生動物の総量が1億トン未 満、ヒツジや豚は10億頭、牛は15億頭、鶏は250億羽以上、 それに対してキリンは8万頭ほどしかいない。 何百億もの家畜は機械化された製造ラインの一部としてのみ生か され、ニワトリや牛の大多数は生後数週間から数か月で殺される。 人類は、ホモ属として進化したのが250万年前、言語が生まれ たのが7万年前、我々が世界史として知ることができるのは、 せいぜい紀元前5千年位からである。 そのうちテクノロジーの進化は、たったの200年。 日本では、明治以降高々150年に過ぎない。 50年ほど前の私の学生時代、ワンゲルで過疎地帯に行くと、電 気も水道も、ましてガスなどは想像もできない生活が、まだ残っ ていた。 「科学革命は万能たりえるか?」 テクノロジー発展の恩恵は、億年とか、万年とかいう、スパンと は、比べ物にならないほどの一瞬に過ぎない。 生活の変化の速度は、生命体としての人類の進化の速度をはるか に上回っている。 人間の体は、いまだ、狩猟生活者の時代のⅮNAに、支配されて いるのだ。 ダーウィンは、「あらゆる生物の中で進化論に一番当てはまらな い生物は人間である」と述べたという。 人類が猿から進化したとして、言語を話すまでに要した600万 年という期間は、進化には短すぎて不自然だと言われる。 著者はおおむねサピエンスの歴史を、ダーウィンの進化論に沿う 形で構成しているが、ジョンホプキンス大学のリー・スペットナ ー博士はこの600万年で、脳の容量が950CCから1400 CCへ変化することは、突然変異では起こせないと言う。 猿と人類の間の猿人の化石がないミッシングリンクもあり、進化 論を確定した学説と認めることに疑問が生じているという。 進化論は、まだ仮説の段階というのが正しいようだ。 人類に対し恐竜は、三畳紀(約2億5200万年前〜約2億13 0万年前)爬虫類から、進化し、ジュラ紀(1億9900万年前 にはじまり、約1億4500万年前まで)に繁栄、白亜紀末 (6500万年前)地球規模の大絶滅が起こり、恐竜類は鳥類を 除いて絶滅したが、それでも最大2億年近く存続した。 果たして人類は、後どのくらい生き延びることができるのであろ うか? とてもじゃないが、恐竜と同じ年数だけ生き延びるということは 不可能であろう。 それどころか、あと数百年でさえ、危ないのではなかろうか? このような時間軸でヒトを見ると、今の自分の生活が、いかに 短く、急激に変化した結果であり、このスピードで突き進むと どんな未来が待ち構えているのか、不安のほうが強くなった。 ホーキング博士は、「人工ウィルス、軍拡競争、核戦争、地球 温暖化、加速器を使った素粒子の実験」などのリスクが、人類を 滅ぼす恐れがあると警告している。 「人類は、戦争から逃れられない生物」 日本という国を考えただけでも、安倍首相は、「真摯」とか「誠 実」にと言う言葉を、口先だけ使って恥じることのない、自己保 身の権化である。 彼には辞書がないのか、あっても理解しようとしないのか? 法という最低基準に触れないように、体裁を付け、都合よくご まかし続ける。 (合法と言うより、法の精神を無視した脱法である) キャッチフレーズを次々打ち出し、目先をごまかすのにたけてい るだけで、人間性も良心も信頼性もなく、巧妙に権力を維持する ことを最重点に実行する政治屋に過ぎない。 憲法改正でも、9条の1,2項を残して3項に自衛隊を追加し、 軍隊として認めると言う、論理的に矛盾したことを、受け入れ られ易いというご都合主義で実現しようとしている。 核ミサイルを装備しようとする北朝鮮や、既に核武装している 中国に対する抑止力としての軍備は、核戦力しかないことは自 明である。 軍備を抑止力として考える限り、戦争をすることを覚悟しない と、絵にかいた餅になる。 米国は力は正義なりと考え、現に武力を行使している。 このような風潮に乗って、なし崩し的に戦争のできる国になれ ば日本の未来は明るいものではありえない。 彼は、日本が戦争ができる普通の「独立国」になることを理想と しているように思う。 小池知事も、それに劣らず、自己中心主義屋であり、相手を攻撃 して、自身の欠点を隠し、その実何も実現できない独りよがりの 政治屋でしかない。 こんな連中が日本を代表する政治家だと言う。 野党も彼らに対し何も対抗できず、全くだらしがない。 北朝鮮に対しては、圧力だけかけると言いながら、その結果に対 しての対応は、何を考えているのか、判然としない。 防衛予算が確実に増えているだけで、戦争を避ける手段は、どこ にも見当たらない。 金正恩が暴走しないまま、自滅すると言う保証を持っているのだ ろうか? 世界的視点で見ると、著者が言う、「妄想」とか「虚構」にしか 過ぎない「国とか民族とか、宗教、愛国心」に立脚した政治では、 戦争は避けられない。 また、信念も、人類を滅亡させる源泉となるだけに過ぎないので はないだろうか? どの国も、愛国心を叫び、平和を追求すると叫ぶが、ヒトラーも 金正恩もトランプもそれぞれが愛国心や平和を求めていると主張 してきた。 2003年のイラク戦争の最中に、アメリカのジョージ・W・ブ ッシュ大統領が、度々「神の加護を」とか「神の祝福あれ」と、 しきりに「神」を引用して、戦争を正当化していたのに対し、 ローマ法王ヨハネ・パウロ2世から、「神の名を用いて殺すな」 と不快感を示され、「イラクでのこの戦争に正義はなく、罪であ る」と批判されていた。 聖書を絶対視するキリスト教福音派、シーア派やスンニ派のイス ラム原理主義者、ミャンマーの仏教徒とロヒンギャ、いずれも宗 教に基づく信念が、相手を否定する構図になっている。 政治イデオロギーも同様である。 共産主義だとか、自由民主主義だとかきれいごとを並べるが、既 得権と、拝金主義、どちらでも、より自分の利益になるのは何か、 が全ての判断基準となっている。 習近平、金正恩、プーチン、トランプ、エルドアン、安倍晋三、 皆、自己中心主義者であり自己保身の権化である。 金正恩も、習近平も既得権益の保持が絶対条件で、異議を挟むこ とを許そうとしない独裁者である。 北朝鮮の、核実験やICBMの実験を非難している米国は、世界 で一番それらの兵器を保有し、世界中で敵を作って戦争をしてい る国でもある。 イスラム過激派を作ったのは、米国の対応の結果であり、キリス ト教原理主義の結果ではなかろうか? 核兵器不拡散条約は、強者の論理に過ぎず、核を持たない国が、 核の脅威に対抗するには、それを上回る核戦力保持しか対抗手段 はない。 国や領土の概念を戦争と切り離して考えることができない人類は、 どこかで誰かが判断ミスを犯し、核ボタンを押してしまったら、 地球上の歴史ある多くの生物の中でも、唯一あっけなく自滅する 種となるのではなかろうか? ホモサピエンスなどと自画自賛しながら、人知で制御しえない 兵器で自滅するのは運命かもしれない。 宇宙の歴史、地球の歴史、生物の歴史の中で、人類の歴史は一瞬 の瞬きの時間に過ぎないのに、多くの生物を虐殺しただけの歴史 を残して、自ら滅亡する運命なのか? 人類は、戦争を回避できない原罪を背負ったまま、滅亡する運命 から逃れられないのではないか? 国・民族・宗教・愛国心を超えた地球の生物、もしくは宇宙の中 の人類として何をなすべきかを共有できない限り、ネアンデルタ ール人より短い期間で人類は滅んでしまうだろう。 「参考」TED 人類の台頭はいかにして起こったか?         ナショナリズムとグローバリズム:新たな政治的分断 先頭へ 「第2部」 「生きる意味」と「神の存在」 (この本を読んで派生的に考えたこと) この本を読んで、「自ら神の領域に踏み込んだ」と著者が言う、 サピエンスの将来に、私は希望を見出すことができなかった。 また、一個人としての人生の意義についても、肯定的な考えが 浮かばなくなってしまった。 現在地球上には、70億人もの人類が生存している。 それぞれに、生きる意味や価値がなぜ必要なのか? デス・エデュケーションを含む死と生に関する研究は、「サナト ロジー」(死生学)と呼ばれる。 「そらら日和」(https://ameblo.jp/yukimalutonahibi/) 等の記事を参考にしました。 死生学のパイオニアである、精神医学者エリザベス・キューブラ ー=ロスの著書、「死の瞬間」のなかで、余命宣告を受けた患者 がたどる「死の受容プロセス」と呼んだものによると、「否認」 「怒り」「取引」「抑うつ」「受容」という五つの段階に分けら れている。 しかし、全ての患者が「このような経過をたどるわけではない」 とも書いている。 この五段階をもう少し詳しく解説する。 第一段階:「否認と孤立」 病などで、自分の余命があと少ししかないと通告され、否定 しきれない事実だとわかっていても、死の運命の事実を拒否 し否定する段階。 それは冗談でしょうとか、何かの間違いだという風に事実を 拒絶・否認し、周囲から距離を置くことになる。 第二段階:「怒り」 否定しきれない事実、宿命だと自覚できたとき、「なぜ私が 死なねばならないのか」という「死の根拠」を問いかけ、 「なぜ私が」という問いに、答えがないことに対し、怒りを 感じ、あらわにする。 第三段階:「取り引き」 怒っても、死の宿命はどうしようもない、と認識するが、なお 何かの救いがないかと模索する。 この時、言い訳や条件を付けて、死を回避できないか探ったり、 取引を試みる。 第四段階:「抑鬱」 どんなことが満たされても、なお死が避けられないことが分か ると、自分はやがて死ぬという、事実が感情的にも理解され、 閉塞感が訪れる。 このようにして深い憂鬱と抑鬱状態に落ち込む。 第五段階:「受容」 生命が死んでいくことは自然なことだという気持ちになり、 心に平安が訪れ、受容段階の後半には、突然すべてを悟った 解脱の境地が現れ、「死の受容」へと人は至る。 この五段階説を読んだとき、私はなるほどと感心したが、自分が がんだと言われても、全くこのようには感じなかった。 余命宣告ではなかったのが大きいが、否認とか、怒りを持っても 何も解決の足しにならないばかりか、障害にしかならないと、言 い聞かせ、実際にそう思っていた。 また、人の死は、時期や状況を含め、何一つ自分でコントロール することができない。 自殺だけが唯一の例外だが、死は非可逆的でやり直しがきかない。 「死の受容プロセス」は死ぬまでの間に時間的な余裕がないと、 不可能なプロセスでもある。 マザーテレサもキューブラー・ロスも、晩年まで葛藤し続けながら 懸命に死にゆく人々の声を聞いた。 それに何の意味があるのか? キューブラー・ロスは、脳卒中の発作を起こしたとき、神に「あな たはヒトラーだ」と呼びかけた。 彼女は続ける。 『「ヒトラー並だ」と言ったのに神はただ笑っていた。 それでますます頭に来たわ。 40年間も神に仕える仕事をしてきて、やっと引退しようと思っ たら、脳卒中で何にもできなくなってしまった。 半身不随になって6年目、私はまだ生きている。 不幸にも……不幸にもね。 あなたたちに分かる?  もう6年間、死にたいと思ってきたわ。 6年もよ!  (中略)  私にできるのは早く死ねるよう祈ることだけ。』 脳卒中で倒れてからの6年のあいだ、彼女が考えに、考え抜いた 末に「死にたい」と祈ることしかできなかったのだ。 自分の死については、提唱し続けた「死の受容過程」が、彼女自 身には、当てはまらなかったことを示している。 現世に深く絶望し、死後の世界を切望していたことがわかる。 命とは神から与えられたものなので、勝手に寿命を伸ばしたり、 縮めたりするのは禁じられていると思うにもかかわらず、彼女は 「死にたい」と願っている。 これは、「死ぬ希望さえも失われている状態」といえるだろう。 これはマザーテレサが感じていた「神の不在感」、「霊的乾燥」 (信仰への絶望)と似ているのだろうか? キューブラー・ロスは、さらに次ようにも言っている。 『愛を受け入れるということに関して私は落第だった。  自分を愛するなんてとんでもないと思うから、あまり多くの  愛を得られずにきた。  だから私は学ぶべきことになっているのよ。  嫌でたまらないけど。』 マザー・テレサは、しばしば神への信仰を力強く語り、人々を励 まし勇気を与え、絶えず神に感謝の祈りを捧げる聖者だと私は思 っていた。 また、神への信仰によって、マザーの人生は、常に明るく積極的 で希望に満ちたものであったであろう、とも考えていた。 ところが彼女が霊的指導者(告解担当の神父)たちに宛てた手紙 には、それとは全く反対の“神の存在への疑念”が延々と述べられ ていた。 神父は、信者の告白に関することを、どんな場合にも絶対に人に もらすことはできないはずなのに、どうして公開したのか疑問で はあるが・・?。 「マザー・テレサの苦悩」 「私の魂の中には、あまりにも多くの矛盾があります。  神への深い思慕の情神との触れ合いを渇望するその思いが、  繰り返し私に苦しみを与えるのです。  私は神から求められてはいません。  神から拒絶され、虚しく、信仰もなく、愛もなく、熱意もあ  りません。  私の魂には何ひとつ魅力あるものがありません。  天国は何の意味もありません。  それは私には空虚な場所のようにしか感じられません。」 「私がシスターや人々に神や神の仕事について口を開くとき、  その人たちに光と喜びと勇気をもたらすことをよく理解して  います。  しかしその私は、光も喜びも勇気も何も得ていないのです。  内面はすべて闇で、神から完全に切り離されているという感  覚です。」 「神はこのような状態にある私から、いったい何を得ることが  できるのでしょうか。  私には信仰もなく、愛もないのです。  先日来、私の心がどれほど暗く落ち込んでいたか、語ること  さえできません。  (中略)  闇はあまりにも暗く、痛みはあまりにも辛いのです。  (中略)  人々は、私の信仰を見て、神のもとへ引き寄せられると言い  ます。  これは人々を偽っていることにならないでしょうか?   私は、本当のことを言いたいのです。  “私には信仰はありません”と伝えたいのです。  しかし、その言葉を口にすることはできません。」 マザーの心は「霊的闇」の苦悩を「キリスト教的な解釈」で克服 しようとする葛藤の中で激しく揺れ動き、その葛藤は死を迎える 直前まで続いていたことが痛いほどわかる。 遠藤周作の『沈黙』の主人公ロドリゴも、いくら仕えても「沈黙」 し続ける神に対し、不信感を抱いていた。 私は、これらのことから「神とは人間が作った虚構」であるとい う指摘に大いに同感するところがある。 神はなにもヒトを愛する必要もないし、そんなことを期待するほ うがおかしいのではないか? マザーは極貧の人々の幸せを望み、神の愛や救いを期待した。 私は、彼女が、修道女としての自分の存在を否定できないまま、 神の存在や愛に、疑問を生じた自分に苦しんだのだと思う。 宇宙を作り、地球を作り、多くの生物を作った創造主を、神とす るならばヒトだけが、「最後の審判」というもので救われるとは とうてい納得できない。 ヒトが作った「宗教という虚構」に神がいるのではなく、何者か わからない、人知を超えたなにかがあるのではないか? ヒトは、それを明らかにすることができないまま滅んでいく生物 の一種に過ぎないではないかと思うこの頃である。 「良い死に方と悪い死に方」 このところ、立派な死に様の話ばかり読み聞きしているせいか、 へそ曲がりの私はみっともない死に方との間にどんな違いがある のだろうかと考えている。 死は普遍的で誰も避けることができない。どんな死に様であって も死ぬことには何も変わらない。 生物(生き物)として、人間を見れば種の永続性を担保するため に、世代交代は必須であり、死は必要なものとしてプログラム化 されている。 それでも種としての人類も宇宙的な時間で見ると、アッという間 に無くなってしまう存在のように思える。 いい死に方を追求するのは意味が無いのではないか、突然自覚の ないまま死ぬこともあるし、苦痛と恐怖でそれどころではなく死 を迎えるかもしれない。 いい人生だった。皆さん有り難うといって死ねるのは、死ぬ前に それだけの時間が与えられ、考える事が出来るだけの余裕と、体 調がなければ不可能だ。 恥多い人生を送り、挫折の連続でしかなかった自分が、死ぬ前だ け平安になれるとはとても思えないし、思えたとすれば自己満足 に過ぎないのではないかとの気持ちがよぎる。 それでもなおかつ自分の人生に意味を見つけたい。 こうやって、堂々巡りに陥り、「小人閑居して不善をなす」こと になる。 死ぬまで生きるしかない私は、生きることを楽しみ、周りの人に も迷惑をかけず、できれば周りの人に幸せを感じてもらえる存在 になりたいと思うが、さんざん妻や回りに迷惑をかけ厄介者にな りながら死ぬかもしれない。 すみません。ごめんなさいと言って死ぬのが、今の自分にふさわ しいようではある。 立花隆 「がん 生と死の謎に挑む」 2009年12月初旬『NHKスペシャル:立花隆がんの謎に挑 む』という番組が放映された。 この番組を見て、がんが正常な幹細胞に良く似ていること、生命 維持・存続の仕組みそのものに、がんに起因するものがあること、 がんになる理由は分かってきたが、治すことはこの半世紀の間あ まり進歩しておらず、がんを征圧するにはまだ相当の年月が必要 であることが良く分かった。 要するに今現在、がんを治療できるのは、がんが原発部分に局限 されて転移を起こしていないごく初期段階で、手術で取り除くこ とができる場合に限られているということである。 がんの塊の真ん中あたりは血管の新生が追いつかず低酸素状態に なるが、そのような過酷な環境に順応し働き出すHIF-1 (ヒフ-ワン)という遺伝子は、放射線や抗がん剤でも生き残り、他 の組織に移動浸潤する。 しかも厄介なことにこのHIF-1という遺伝子は、生物がその 長い進化の過程で獲得したものであり、人類の存在もこの遺伝子 の存在があってのことであり、がんだけに効く薬ができない理由 の大きな要因になっているということであった。 重粒子線は、この低酸素状態のHIF-1も破壊するということ だったので、私は期待していたのだが、結果的には私の食道に取 り付いたがんには効かず、なぜ効かなかったのかもわからずじま いであった。 この立花レポートで抗がん剤も、免疫療法も僥倖に恵まれない限 りそれほど期待できないことが良く理解でき、今回自分が手術を 選択したのは、正しかったのだと、改めて納得せざるを得なかっ た。 しかし、この詳細なレポートを見たことで、今後の自分の未来に あまり期待ができないこともわかり、今後の自分の生き方に、未 だに確固とした信念や覚悟を持てないことに戸惑いも感じた。 手術後の後遺症が、これほど辛いものだという現実を知った今、 65歳という私の年齢(2009年現在)を考えると、完治を 目指すには手術しか選択肢が無かったとは言え、がんとの共存を 選ぶ道もあったと思う。 なんと言っても手術前は、重粒子線治療中も抗がん剤治療中も、 自覚症状は殆んど無く、治療の副作用で苦しさを少し感じた程度 であったからだ。 このテレビ番組の後、週刊誌に柳田邦男氏と立花隆氏の対談が出 ていた。 柳田邦男の著書はがんに関しては「ガン回廊の朝」、『死の医学 への序章』等を読んだ事がある。 それ以外では「マッハの恐怖」がおもしろかった。立花隆の著書 は「宇宙からの帰還」「がんと闘った科学者の記録」 「脳死」 等を読んだ。 この週刊誌の中で柳田は、『死ぬならがんで死にたい。がんは、 最後に豊かな時間を与えてくれる』と言っている。 さらに『がんを怖がっていたら時間がもったいない。誤解を恐れ ずに言うなら、堂々と、がんを楽しみながら生きる』とまで書き、 『僕は、自分の死を確認することにより、自分の精神が、後を生 きる人々の心の中でどう生きるのか楽しみだし、そう思うと死を 肯定的に受容できる』とも言っている。 柳田は、確かに多くのがん患者にインタビューしており、私より 何倍もの知識や経験があると思うが、これらの言葉に私は違和感 を覚えた。 彼の言葉は、手術後の後遺症の苦しみ、痛みや再発への不安など 自分のものとして経験していないから言えるのではなかろうか? 確かにがんは『豊かな時間を与えてくれる』がそれは体調が安定 しているときの話であり、苦しみ悶えている時間の方が圧倒的に 多く、そんな時には誰もインタビューなど受け付けないし、のた 打ち回っている患者を一部始終見たことがないものが本当に言え る言葉であるのだろうか? 夜昼かまわず絶叫に近いうめき声を聞いて『堂々と、がんを楽し みながら生きる』ことができるとは私には無理な相談である。 『死にともない』 山田無文 著 春秋社刊より抜粋してみる。 「博多に仙崖という名僧がおられました。  その仙崖さんの描かれた絵が禅画と名づけられて、ヨーロツパ  やアメリカでちかごろ好評を博しておるそうでございます。   亡くなられるときに弟子たちが 「いよいよあなたもご最期のよ  うだが、何かええことばを一つ遺していただきたい、  ご遺戒をちょうだいしたい」 、こう言ってお願いしましたら、  仙崖和尚が 「死にともない、死にともない」 と  もうすこしええことをおつしやつてください」ともう一度お願  いしたら「ほんまに、ほんまに」 といわれたという逸話が残って  おります。」 私はこれで良いのではないかと思う。生を受けたものは、必ず死 ぬのは当たり前なのだが、自分のことになったら、当たり前では なくなってしまう。それでも必ず死ぬ。 死後について、検事総長であった伊藤栄樹氏は、昭和63年に 刊行された著書、『人は死ねばゴミになる』という、なんとも 刺激的で絶望的なネーミングの本で、 『僕は、人は死んだ瞬間、ただの物質つまりホコリと同じよう  なものになってしまうのだと思うよ。  死の向こうに死者の世界とか霊界といったものはないと思う。  死んでしまったら、当人は、全くのゴミみたいなものと化し  て、意識のようなものは残らないだろうよ』と書き、さらに 『人間の死んだあとに霊魂が残るなら、草や木にも残るのでな  ければおかしい。  一方、地球上に生命が誕生してから、ある程度の時間が過ぎ  ているが、その間に”死んだ”生命どもがみんな霊魂をあと  にとどめたとしたら、もうこの地球は、それらで充満してお  り、僕の魂が割り込む席はないのじゃないかな。  だから、僕は、残される家族のためにやっておきたいことは、  何としてもいのちのある間にやっておかなければ、と思う。  死の到来との競争で。』と書いている。 残される家族の心情も考えた上での言葉である。 一方ラ・サール会の修道士で、函館ラ・サールの校長でもあった ブラザー・ラベル先生は、学生から『先生は天国の存在を本当に 信じていますか?』と問われたとき『ハイ、信じています。だっ てその方が楽しいじゃありませんか』と答えられた。 食道がんの手術を受けた後、私は下記の文章を残していた。 手術を行ったことで転移・再発がなければ、そのうち体調も回復 し旅行にも出かけられ、美しい自然を満喫することができるだろ うが、そうならないうちに再発することも考えられることであり、 手術という決断が最良のものであったかは、まだ評価できない。 手術を選択しなければ、それはそれでまた別の苦しみに遭遇する かもしれないし、全く厄介な病気に罹ったものである。 現実から眼をそらさず、期待もせず悲観もせず、あるがままを受 け入れられる心境に早く達したいものだ。 このように、私は未だに手術を選択したことに対し頭の中の混乱 状態から完全には脱し切れていない。 死ぬこと自体は恐ろしいことだとは思わないようになったが、従 容としてそれを受け入れられるかは、まだ自信がない。 「人間は死ぬまで生きていることができる」ということに、立花 氏はよりどころを見つけたようだが、凡人である私がこれまでの 入院生活で感じたり知りえた知識や感想を記してみたい。 「手術は単に物理的にがん細胞を含んだ組織と、あるかもしれな いと思われる組織を取り除くだけの治療である」。 「今の医学では治療の前に効果をあらかじめ個別に予測すること は不可能な段階である。」。 医者が治ったと思う状態と、患者が治ったと思う状態には絶望的 と思えるほどの乖離がある。 まして侵襲性が低いと言うのは医者の判断で、侵襲性の高い過去 の手術を受けたことがない患者にとっては全く意味のない判断で ある。 しかしそれでも手術は劇的に進歩したといわれているし、命を永 らえる方法としては、現状では最も確実な方法なのである。 2014年にお亡くなりになられた、元理化学研究所の永井克孝 (ながいよしたか)先生は家内が勤める「フォルム画廊」に時々 お見えになる方で、家内との雑談の折、私が食道がんに罹ったこ とを知られ、国立がんセンター総長垣添先生の著書「がんの最新 医療」を下さった。 その後、先生は、結局、私が手術を受けることになり、その後遺 症で鬱的になっていることを家内から聞かれ、今度は、五木寛之 の『養生の実技』という本を下さった。 五木寛之はその本の中で 『私の考えでは、病気は治らない。  治めるだけだ。完治と言う言葉がすでにマヤカシである。  手術が大成功してガンが消えたら、体はもとに復するか。  そんなことは子供にでもわかるだろう。  体にメスを入れたという経歴は、決して体の歴史から消し去  ることはできないのである。』と書いている。     さらに、食道がんになる前に、次の文章を残している。         尊厳死とホスピス  04/24/2005 私の父と妻の父は、共に死ぬ数年前痴呆状態になり、最後はスパ ゲティ症候群と言われる輸液ルート、導尿バルン、気道チューブ など沢山のチューブを取り付けられて、意識不明のまま言葉を発 することもなく亡くなった。 治る見込みがないのにただ延命のためだけに多くの治療が行われ、 多額の医療費が使われたのだが、徒に苦痛を長引かせるためだけ ではないかと思わざるを得なかった。 スウェーデンでは「痴呆老人に対し、吸引や酸素吸入をできる限 り行わず"自然な死"を、という考えのもとにケアが行われている」 そうであるが、「できる限り行わず」とは「できる限り早く死な す」という意味のようでもあり、尊厳死についてどう考えるべき か、自分の考えを整理してみたいと思った。 先月末、十五年前、脳に障害を負い植物状態となった米フロリダ 州のテリ・シャイボさんが同州のホスピスで死亡した。(死亡さ せられたと表現すべきかもしれない) 夫が申し立てた「死ぬ権利」が認められ、栄養補給チューブがは ずされてから十四日目だった。 それから間もなくして、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が亡くな ったが、彼はこのような『尊厳死』を認めていなかった。 彼自身はテロの後遺症、パーキンソン病などに悩まされ、震えて も、歩けなくなっても、呼吸困難で声を発することもできなくな っても、肉体の苦しみという「試練」がそのまま信仰の糧となっ ていくという信念を貫き、譲座(引退)するとは言わなかったと いう。 不治の病床にある人への尊厳死や安楽死という問題についても人 間の「尊厳」を判断するのは人間ではない、尊厳とは人が創造さ れて生かされていることそのものにあるのだ。 「元気や四肢の自由や意識」を奪われたとしても、人は生きてい るだけで尊厳ある存在なのだということを、主張したかったので あろう。 しかし、1980年にローマ法王庁は治療できる見込のない患者 の医療停止や放棄は認めているのである。 その点から見ると、栄養補給チューブを外すことは、医療停止や 放棄とは認めていないことになる。 一方で「回復する見込みもないまま、生きている人間の都合で、 苦痛を長引かせるためだけに生かされ続けるのは、生きているも のの幸福を問う、宗教の役目に反しており、原理主義がいかに不 毛かを示している」という主張もある。 だがこの主張は、「生きている人間の都合で」とあるが、これは 本人ではなく「周りの人間の都合」であり、一歩間違うと適者生 存というナチスドイツの優生保護思想と同じ結果を生みかねない と思う。 中国の甘粛省では1988年11月に、精神薄弱者が子供を持つ ことを禁じる地方法を制定したそうである。 精神薄弱者は結婚前に、不妊手術を受けねばならず、また既婚者 は不妊手術を、妊娠者は中絶をしなければならないと言うものだ とか。 最近の中国は、経済成長がもてはやされているが、一人っ子政策 とともにこのような考えを法制化しようとするところに国の根底 が一挙に崩れる危うさがあると感じる。 尊厳死が、「人間としての尊厳を保って死に至ること、つまり、 単に、生物としてではなく、人間として待遇されて、人間として 死に到ること、そのようにして達成された死」と言う定義である なら、この定義そのものには何も問題がないように思う。 問題は、尊厳死を実現するにはどのようにすればよいか、するべ きかの考えがさまざまであり、その人の死生観も絡まり、妥協し にくい問題となっている点である。 こんなことを考えていた同じ頃、我が家の近くに聖路加国際病院 で活動されている、日野原重明先生が設立に奔走された、日本初 の独立型ホスピス、ピースハウス病院があることを知った。 ピースハウス病院は、1993年に設立され、ホスピスに特化し た病院で、その後破綻したが1年後の2016年に再開された。 インターネットで調べてみると『ホスピス公開セミナー』が開設 されており、参加することにした。 秦野・中井インターの近くのゴルフ場の敷地の一角に、リゾート ホテル風の瀟洒な病院があった。 施設の見学を含め2時間ほどのセミナーであったが、初めて知っ たことも多くあった。 先ず日本のホスピスは、厚生省の認可を受けるには多くの条件を クリアしなければならないこと。 患者は、がんとエイズに限定されることなどである。 さらにこのホスピスでは原則として余命6ヶ月とみなされ、治療 方法がない患者が対象で、平均在院日数は58日(2003年度) 、平均年齢68.5歳、肺がんが21%で他のがんに比べ群を抜 いて多いことなどを知った。 ホスピスの趣旨からしても、患者をがんとエイズに限定するのは おかしいと思うし、もっと病状が軽い段階から受け入れることも 必要ではないかと感じた。 ここで働くボランティアの方は、全くの無償で奉仕しているそう だが、優しい眼差しと、生きがいを感じた満されたお顔が印象的 であった。 しかし、セミナーが終わって帰路の車の中でも、尊厳死とは如何 なるものか、まだ霧が晴れない思いが残った。 私はこのころ、尊厳死協会の会員になり、今でも継続中だが、 『人間の「尊厳」を判断するのは人間ではない、尊厳とは人が  創造されて生かされていることそのものにあるのだ。  「元気や四肢の自由や意識」を奪われたとしても、人は生き  ているだけで尊厳ある存在なのだ』 という、ヨハネ・パウロ2世の言葉に心が引きずられ、尊厳死協 会に疑問を生じ、脱退することも考えている。 要するに、私はまだ何もわかっていないのだ。 先頭へ

戻る